2014年3月16日日曜日

論文の読み手のバイアスとか、科学ジャーナリズムの難しさとか。

このエントリーは、自分の記録と自戒のために残しておこうと思って書いているものです。STAP細胞の話が出てきますが、このエントリーの中で、STAPとはなにかについては解説していません。たぶん、後日、STAP細胞の謎そのものについては、別のエントリーを書くと思います。

1月31日。理研がSTAP細胞なるものを作ったというニュースの第一報を、僕は、テレビで見ました。体細胞に酸による刺激を与えるだけで多能性細胞が作られるという研究の内容を聞いて、僕が、まず第一に連想したのは、あのニセiPS細胞の森口尚志さんのことでした。発表内容が、あまりに通常の生物学の常識に反していたものですから、即座に嘘だと思ったのです。理研に第二の森口さんが現れたと思ったのでした。

僕は、森口さんと一緒に仕事はしたことはないものの、彼と同じフロアで働いていたことがあって、彼とは何度か話したことがあります。真面目な医師兼研究者だと思っていました。彼が、自分で自分のことを医師だと自己紹介したことがあるわけではありませんが、なんとなく医師然とした態度で振舞っていましたし、右も左も医師が多い医大でのことですから、僕も、彼のことを、なんとなく医師だと思っていたのです。平凡な外見で、あまり印象が強い人ではありませんでしたので、ニセiPS細胞の事件があったときも、すぐには思い出せませんでしたが、何度かテレビで顔を見ている間になんとなく思い出し、その後は、あの平凡そうで真面目そうな彼が、どこで道を踏み外したのだろうと思っていました。彼の顔をテレビで見ながら、きっと長期間にわたって一人だけで実験していると、つい、自分が期待する実験結果をでっちあげてしまいたくなる、そういう誘惑があるのだろうな、と思ったものです(そして、そういう感覚は、科学研究の道を志したこともある僕にとっても、ひとごとではなく、よく分かる感覚でした)。

そこで、はじめに理研の発表を聞いた時、この研究は、森口さんのように、誰か一人の研究者が自分だけで研究をすすめて、その結果ウソをついてしまった研究ではないかと想像したのです。ですから、僕が、理研の発表を少し詳細に聞いてびっくりしたのは、この研究がそこそこ大掛かりなチームで行われていたものだということでした。その時、ひょっとしたら、この研究は本当かもしれない。そう思いました。基礎的な科学論文からは久しく離れていましたが、ひとつ、この論文を読んでみようか、そう思いました。

実際に論文を初めて読んだのは、2月3日の月曜日のことになります。僕は、毎週月曜日に、某私立大学に勤務しています。その大学の自分の居室でSTAP細胞の論文をダウンロードしました。大学からアクセスした理由は、Natureのような論文誌のサイトは、大学や研究機関からのアクセスでないと内容を読むのが少し面倒だからです。論文をダウンロードしたその頃には、もう、女子力の高い割烹着のリケジョは、世間でちょっとしたブームになっていました。

科学論文を読むときに、しばしば、「批判的に吟味」せよと言われます。これは、その論文が主張している結論が、きちんとした論理的な推論でなされているかどうか、それから、その論理が、きちんとした科学的(あるいは統計的)な実験や観察の結果に基づいているかどうか、その実験や観察は科学的に正しい方法でなされているかどうか、そういったことを、少々意地悪な論文批判者の目になってチェックしながら読んでいくことです。しかし、その時、すでに世間のフィーバーの影響で強い先入観を持って論文を読んだ僕には、「批判的に吟味」はできませんでした。

論文全体をざっと見て、初めの印象は、恐ろしく図表の多い論文だということでした。たぶん、僕が過去に読んだNatureの論文の中では、一番図の多い論文だと思います。大部分の図は、STAP細胞がどのような細胞なのかを調べた追加実験の説明のためのものです。おそらく、Natureで論文を審査した査読者からの要求で、ものすごくたくさんの追加実験を行ったからだと思いました。記者会見で、小保方さん自身が、Natureの査読者からかなり厳しい評価をされて悔しい思いをしたと話していましたので、きっと、その厳しい査読のあとが、このたくさんの図なんだろうと思ったのです。それから、この論文を書いた小保方さんは、きっと、英語があまり得意ではないのではないかと思いました。といいますのは、僕自身も含めて、英作文が苦手な人が英語論文を書く時に、細かいヤヤコシイ説明を下手くそな英語でするよりも、図を使って説明しようとすることがよくあるからです。図で説明すれば、英語が苦手なことによるハンディキャップを多少ですが埋めることができるのですね。

それから、論文を実際に読んで、少し冗長な文章だな、また、図と本文の対応が少し分かりにくい論文だな、と思いました。今から考えますと、この論文には、この研究に関係ない別の論文からコピーした図表や説明が混ざりこんでいたわけですから、この印象はあたりまえのことでした。初めて読んだ時も、それらの不自然な部分に、意識のどこかでは気づいてはいたのです。しかし、文を読んだ瞬間は、そのおかしな部分も目にはつくのですが、次のセンテンスを読むときには、その違和感は忘れ、結局、おかしな部分は飛ばし読みし、頭の中で論旨を補いながら読んでしまっていたのでした。批判的にではなく、相当に「好意的に吟味」してしまったのですね。

一読したあとの僕は、この論文の、あまりに革命的な主張に感動していました。自分は生物学と医学に本当の革命が起こる時代に生まれ合わせたんだな、本当にすごいことだな、と思いました。そして、この発見は、科学だけではなくて、ビジネスと医療を通じて、僕達の社会全体に大きな革命をもたらすことになるだろうとも思いました。これはノーベル賞は確実だとも思いましたし、自分の学んできた生物学の相当部分が、過去のものになった(現在の医学がいずれ過去のものになるのは、STAP細胞などに関係なく当然のことなのですが、この時には、本当に自分の学んだ生物学が過去のものになったと実感したのです)と思いました。

それから、僕は、マスコミが割烹着の話ばかりして、この素晴らしい新しい万能細胞のインパクトについて報道しないのをみて憤るようになりました。これだけ素晴らしい発見があったのだから、リケジョがどうとかでなくて科学的な研究内容を伝えるべきだと思いましたから。

それから、しばらくたって、彼女の博士論文の剽窃や捏造の問題、さらに、今回のNatureの論文の様々な問題が指摘され始めました。今や、この論文自体の撤回が焦点になっているのは、皆様ご存知のとおりです。

今日、改めて、問題だったNatureの論文を読んでみました。依然、この論文には、ウソとは思えない実験の記載があって、論文の相当部分は嘘だったとしても、やはりおもしろい発見があったのだと考えざるを得ない部分も多いです。ですので、僕は、依然として、この論文には、非常に大きな価値があるのだと考えています。

でも、今日の僕には、この論文の不自然なところがいっぱい見えます。そして、あの時、どうして論文の不自然な部分を飛ばし読みしていたのか、また、あの時、どうしてこの論文にあんなに感動していたのか、よくわからなくなってしまいました。世間のフィーバーによる魔法が、僕の中でとけてしまっていたのですね。

3年前、原発事故がおこったあと、放射能に関する様々な話がネットやテレビを通じて飛び交いました。互いに矛盾する情報も多く、発言者たちは、互いに、「放射脳」「御用学者」と罵倒し合いました。さらに、ある人から放射脳と呼ばれた人が別の人から御用学者と呼ばれていたり、わけがわからない言論のバトルロイヤル状態が続きました。

その時、僕は、いろんな人に言っていました。
「結局、基礎的な科学の勉強をしておくことが大事なんだよ。科学の勉強をしておけば、どの情報がウソか、どの情報が本当か、かなりの程度、世間の騒ぎの影響を受けずに正確にわかるものだから。」

もちろん、今でも、科学の勉強の大切さは疑っていません。しかし、今回、たとえ勉強していても、「世間の騒ぎの影響」で、普段と同じように文章を読むことができなくなる、そういうことを身をもって体験しました。科学の勉強をしようとするまいと、「世間の騒ぎの影響」によるバイアスなしに文章を解釈するというのは、非常に難しいことなのです。

今では、あの時の「リケジョ報道」にも、それほど憤る気にもなりません。たぶん、メディアの中にいて論文を正確に読み、正確に解説するのは、簡単なことではありません。メディアの外の普通の市井に住んで、そこそこの科学教育を受けているはずの僕だって、メディアのバイアスに引きずられるときには、気づかないうちに簡単に引きずられていくのですから。

大事なことですので、繰り返します。 世間の喧騒やブームによるバイアスから独立に人の話や文章を解釈することは、できません。

このエントリーは、これでおしまいです。
読んでお分かりの通り、このエントリーは、僕の自戒の文章であって、結論らしい結論も主張もありません。

あと、僕は、今回のSTAP細胞の論文の内容が、すべてが嘘だとは思っておりません。やはり、何かはハッキリわからないものの、今回、理研で面白い大発見があったのだと思っています。仮に理研で行われたという実験がすべて嘘だとしたら、若山研でSTAP細胞の胎盤への分化が観察されているという話と辻褄が合わなくなってしまうからです。この件については、また別のエントリーを書こうと思います。

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